2013年5月28日火曜日

ドイツ・ゲーテ紀行(12)

平成24年9月7日(金)続き
ヘルダー教会からワイマール中央駅まで歩き、10時55分発の急行(RE)に乗りエアフルトに向かった。
エアフルトまではわずか13分。
エアフルト中央駅のホームから階段を降りるとすぐに道路になっていて、いきなり目の前を路面電車が走ってくるので、最初は驚く。


この通りの名はずばり「駅前通り(Bahnhofstraße)」。
市の中心のアンガー広場まではこの駅前通りを5分ほど歩くことになる。

商店街が続く中、突然、レグラー教会(Reglerkirche)というバジリカ式の教会が現れてきた。
案内板を見ると、手前の「南塔」と塔の間の入口の建物は12世紀に建てられた、とある。


扉を開けると、係の年配の女性が笑顔であいさつをして「中へどうぞ」と言う。
新教の教会だけあって中はいたってシンプル。
それでも祭壇画は15世紀のもので、厳かな雰囲気を出している。


こちらはパイプオルガン。

中を一回り歩き、寄付箱にコインを入れ、お礼を言って外に出ようとしたところ、係の女性が、
「これは旧ユダヤ教会のパンフレットです。今、宝物展を開催しているので、よかったらどうぞ」
ユダヤ教会が焼かれた不寛容の時代から65年余り、今ではキリスト教会にユダヤ教会のパンフレットが置いてある。まさに宗教間の融和の象徴だ。

しばらく歩くと広場が見えてきた。
これがアンガー広場。
エアフルト市は人口が約20万人と、さほど大きくない街であるが、さすがに州都だけあって、店の数も、観光客をはじめ外をに出ている人の数もワイマールに比べて多く、にぎわっている感じがする。

今では旧東ドイツの街にもマクドナルドがすっかり定着している。
古い建物にもぴったり合うから不思議だ。
 


こちらはアンガー広場の一角に立つルター像。

ルターは、エアフルト大学で法学を学んでいたが、帰省先のアイスレーベンからエアフルトにもどる途中、落雷に打たれたのをきっかけに修道士になることを決意した。
そのルターが修業したのがアウグスティーナー修道院。



路地を歩いていたら、見つけた!東ドイツの国民車トラバントだ。
去年のドイツ旅行から数えて、現役のトラバントを見るのはこれが初めてだ。
近くまで行って車の中をしげしげと見てしまった。周りの人たちに怪しまれなかっただろうか。
後ろに停まっているのはメルセデスベンツ。
トラバントとメルセデス。これは東西ドイツ統一の象徴的なシーンだ。

こちらはクレーマー橋。クレーマー(Krämer)とは雑貨屋、小間物屋という意味。その名のとおり、橋の両側には土産物店やカフェが並ぶ。

外から見たクレーマー橋。

2時間ほど歩き続けて市庁舎前のフィッシュマルクトまでたどり着いた。
市庁舎の正面。

フィッシュマルクトはその名のとおり、昔は魚の市が立った。

 

11時過ぎにエアフルト中央駅に着いてから歩きっぱなしだった。
もう13時を過ぎている。おなかも空いたのでフィッシャーマルクトに面したCafeでお昼をとることにした。
 
(次回に続く)

2013年5月11日土曜日

ドイツ・ゲーテ紀行(11)

平成24年9月7日(金)
朝はかなり涼しかったが、空気は澄みわたり、ひんやりとした風が心地よい。
秋はもうそこまで来ていた。

この日はワイマール郊外を流れるイルム川沿いのイルム公園を散策してからチュービンゲン州の州都エアフルトに行くことにしていた。

郊外といってもイルム川が街のすぐ隣を流れているので、ホテルから5分も歩かないうちに建物がとぎれ、目の前には緑が広がる。

手前がカール・アウグスト公の居城の前を通る道。
この先がすぐにイルム公園。


石の階段を下りていくとゲーテがカール・アウグスト公から与えられた山荘「ガルテン・ハウス」が見えてくる。

 「ガルテン・ハウス」は入館して室内を見ることもできるが、このときは開館する10時までまだ時間があった。待っているとエアフルトに行くのが遅くなってしまう。入るのは次の機会にしよう、と心に決めて散歩を続けた。

朝のひんやりとした空気の中、イルム川は静かに流れる。

朝早いせいか、人もあまり見かけない。
ここに来ている人は、サイクリングしたり、ジョギングしたり、犬の散歩をさせたりと、思い思いに朝のすがすがしい空気を味わっている。

並木道の向こうには中学生くらいの生徒たちが集団で遠足に出かけてきていた。
私が近づいて行くと、集合写真を撮ろうとしていた一クラスほどの男女の生徒たちが私の方を向いて、カメラのシャッターを押すしぐさをした。
「一枚とってくれませんか」
私は「もちろん」と答え、念のため2回シャッターを押した。
彼らはモニターで出来上がりをみて満足そうに他の生徒たちがいる広場の方に走って行った。


カール・アウグスト公の居城の塔が見えてきた。朝の散歩もここまで。


ワイマール中央駅に行く途中、クラーナハの祭壇画で有名な市教会(同教会の牧師だったヘルダーの名前をとって「ヘルダー教会」と呼ばれている)に立ち寄った。

しかしあいにくクラーナハの祭壇画は修復中。
完成は2年後。また来なくては。


ヘルダー教会もアイゼナハのバッハ・ハウスと同じく第二次世界大戦の空襲で被害を受けた。
教会入口の受付にいた年配の男性は、祭壇画は郊外に疎開させていたので無事だった、と説明してくれた。
そこで私は、3年前に行った名古屋城のことを思い出し、「日本でも同じように文化財を守った人たちがいました」と説明したら、男性はしきりに感心していた。
 

国宝・名古屋城は、太平洋戦争末期の昭和20年5月の空襲で天守閣、本丸御殿とも焼失したが、障壁画は市民たちが空襲前に運び出し、おかげで狩野探幽をはじめとした狩野派の絵師の障壁画は焼失を免れた。
3年前、開府400年で湧いていた名古屋に行ったとき、名古屋城では「狩野派と名古屋城400年」展が開催されていて、探幽の「雪中梅竹鳥図襖」を見ることができた。
今月の29日には本丸御殿の玄関と表書院の公開が始まり、障壁画の復元模写が展示される(名古屋城ホームページ)。模写とはいえ、本物があるからこそ忠実に再現できたのだ。
当時の人たちの努力に感謝しなくてはと思う。

これはその時に撮った名古屋城天守閣(昭和34年再建)。

(次回に続く)