2014年11月29日土曜日

ベルリンの壁崩壊から25年

今月9日はベルリンの壁崩壊から25年目。
ベルリンではLEDで輝く1万個以上の風船が並べられて「光の国境(Lichtgrenze)」が浮かび上がり、お祝いムードが盛り上がっていました。
おかげさまで、私のブログも3年前に連載した「二度と行けない国 東ドイツ」や「ベルリンの壁崩壊」に多くの方にアクセスしていただきました。どうもありがとうございました。

さて、ドイツのメディアでは「ベルリンの壁崩壊」の特集が組まれていて、私もいろいろ記事をチェックしていますが、ZDF(ドイツ第二放送)の記事で面白いものを見つけたのでここに紹介します。
グラフや数字も多く、ある程度ドイツ語を勉強された方ならそれほど苦労なく読める文章ですが、念のため少し解説をつけます。

http://infografik-ddr.zdf.de/



表紙のタイトルは「Leben in der DDR(ドイツ民主共和国での生活)」。
マウスでスクロールしていくと、次々と興味深いデータやグラフが出てきます。

表紙の次のページでは、分断された時の東西ドイツの人口と面積が出てきますが、人口に注目してください。

1949年当時の人口  西 5095万人  東 1838万人

この記事には出てきませんが、東ドイツの人口は建国後30年間で約200万人減少し、1975年には1685万人になり、その後は1600万人台で推移しています。
人口減少の大きな要因は西への逃亡者が多いことで、4ページ目にはベルリンの壁と東西国境の延長が出てきてきますが、一番下にはベルリンの壁が建設された1961年までに約250万人が西に逃亡したと書かれています。
(何ページ目かは、左に並んでいる○がオレンジ色になる位置でわかります)

あまりの逃亡者の多さに危機感を感じた東ドイツ政府が作ったのが全長155kmに及ぶベルリンの壁。ベルリン以外にも1,376kmにわたる東西国境には鉄条網や見張り塔が設置されました。

次のページ「国境(Die Grenze)」に、国境警備のために配置された犬が3,000匹、見張り塔は302基、自動射撃装置が55,000基あったと記載されています。
逃亡を企てた人たちは、国境警備兵に見つかると射殺されるおそれがあることは知っていましたが、まさか自動射撃装置まであったとは。

ベルリンの壁の様子はベルリン市のホームページにイラストが出ているのでご参照ください。
コンクリートの壁だけでなく、幾重にも警戒網が引かれていたのがわかります。

http://www.berlin.de/mauer/zahlen_fakten/index.de.html#grenzanlagen


少し飛んで、西と東の選挙の投票率の推移が示されています(「東ドイツの選挙(Wahlen in der DDR)」)。
東は99.7%、ほとんど100%に近い数字です。
下の注意書きには、「DDRでは自由選挙でなくSED(ドイツ社会主義統一党)が公認したリストを承認するだけ。投票に行かなかったり、(日本みたいに隣とは仕切られた)投票記載台を使ったりすると(SEDを支持していないのでは)と疑われる」と書かれています。
これでは投票率が高くなるはずです。
それにしても西の投票率も89.1%で、国民の政治に対する関心の高さには驚かされます。

次は「監視国家(Der Überwachungsstaat)」というタイトルのページで、国家保安省(Stasi  シュタージ)の正規職員数と協力者数の推移が示されています。
ベルリンの壁が崩壊する1989年には正規職員は9万1千人、協力者は17万3千人に膨れ上がっています。

次のページ(「シュタージ文書(Die StasiAkten)」)では、「シュタージの集めた監視情報の文書は全長111km。これはライプツィヒとドレスデンとの距離に相当する」と記載されています。

しばらく飛んで「女性就労(Frauen im Beruf」では、東では働いている女性の割合91.2%、一方、西では1980年代は50%、「東ドイツでの保育(Kinderbetreuung in der DDR)」では、3歳までの乳幼児の託児所での保育率は大都市でほぼ100%(=待機乳幼児ゼロ)といった数字が出てきます。

冒頭で東ドイツの人口減少についてふれましたが、建国から30年間で特に25歳から60歳までの年齢階層では減少が213万人にのぼったことが女性の社会進出の大きな要因となっていました。

次のページ「東ドイツの所得(Einkommen in der DDR)」では、税や保険料の負担が、1,000東ドイツマルクに対してわずか150東ドイツマルクで社会負担が少ないといったデータがでていて、その次のページ「いくらするの?(Was kostet wie viel?)」では主なモノの値段が出ています。

私が1989年に東ドイツに行ったときの感覚でいうと、1東ドイツマルクが100円なので、パンは1kgで70円と安いのに比べて、コーヒー豆は250gで2,500円、全自動洗濯機は27万5千円、カラーテレビは56万5千円、トラバントは850万円と信じられない値段がついています。

次のページ「新車を待って(Warten auf den Neuwagen)」ではもっと信じられない数字が。
850万円もするトラバントですが、申し込んでから普通だと12年半から17年待たねばならず、早く入手したいとすると2~3倍の値段を払わなくてはならなかったそうです。

「東ドイツの住宅(Wohnen in der DDR)」では、公営住宅も何年も待たなくては入居することができないといった記述があります。それでも家賃は平米あたり100円というのはお手頃ではないでしょうか。

「西の小包(Die Westpakete)」では25という数字が出てきます。
これは年平均で2500万個もの小包が西側から東にいる親戚に送られていたことを示しています。
中身は主に東ではなかなか手に入らないチョコレートやコーヒー豆、衣類です。

一方の東からの小包は年平均900万個で、中身は主に手製のもので、イラストは天使の人形、明かり、シュトレンといったクリスマスにまつわるものが描かれているのでしょうか。

「自由ドイツ青年同盟(Die FDJ)」では75という数字が出てきます。
FDJは、14歳から25歳までの若者が加入するさまざまな課外活動をする組織で、加入率は75%にも達していました。
下の注釈には「加入するしないは自由だが、加入しないと(社会的な)不利益を被る」とありますので、加入率の高さもうなずけます。


次のページは、東には週末に余暇をすごす家が260万、家庭菜園が85万5千あると記載されています。面積はベルリンとドレスデンを合わせたものに匹敵し、これは世界一だったそうです。

その次のページは東ドイツ国民の海外旅行先です。
東ドイツ政府は国民に西側への旅行を許していなかったので、旅行先は東側諸国だけです。
一番はかつてのチェコスロバキアで、1984年の統計では海外に行った人のうち73.2%を占めています。次がハンガリーで13.4%、ポーランド6.7%、ソビエト連邦3.6%と続いています。

こうやってとりあえず最低限度のモノや住宅を与え、余暇も限られた範囲内で楽しませて国民を社会主義国家の中に閉じ込めようとした東ドイツですが、特に1980年代後半は逃亡する人たちの流れを止めることはできませんでした。

「東からの脱出(Raus aus der DDR)」の2つめのグラフでは、壁ができる1961年までと、1989年近くになって特に東ドイツを出る人が多かったことがわかります。
黄色が東から西に移住した人全体で、濃緑色がそのうち逃亡した人たちです。単位は千人ですので、壁の崩壊前には多いときで25万人以上の人が東ドイツから出て行ったことになります。

西に逃れるだけでなく、東の中でも変化が表れてきました。
「国民は通りに出た(Das Volk geht auf die Straße)」では、1989年9月4日からライプツィヒで始まった月曜デモの参加者の数が示されています。9月4日は1000人だった参加者が10月2日には2万人、10月9日には7万人とふくれあがり、10月23日には30万人になり、ベルリンでも11月4日には約50万人もの市民が街の中心 アレクサンダー広場に集まり、表現の自由、旅行の自由、自由選挙権を求めました。

そこで当時の東ドイツ政府は、市民の不満をそらすため、個人の外国旅行を自由化することを11月9日の夜に記者発表したのですが、その席でシャボウスキー政治局員は外国旅行の自由化は「すぐに」施行される、と言ってしまったため、東ベルリン北部にあるボルンホルマー通りの検問所に多くの市民が押し寄せ、もちこたえられなくなった国境警備兵が門を開けました。

これがベルリンの壁が崩壊した瞬間です。
(詳しくは私が2011年にアップした「ベルリンの壁崩壊」をご覧ください)

これは私が3年前にベルリンに行ったときに撮ったボルンホルマー通りの写真です。
(このときの旅行の様子も2011年から翌年にかけて「旧東ドイツ紀行」で紹介しましたので、ぜひご参照ください)



(この項終わり)







2014年11月7日金曜日

「ジョルジョ・デ・キリコ展」ブロガーナイト

11月4日(火)、キリコ展ブロガーナイトに行ってきました。

キリコというとすぐに思い浮かぶのが、人けのない広場とそれを取り囲む建物、そして不可思議なポーズをとるマネキン。

今、パナソニック汐留ミュージアムで開催中の「ジョルジョ・デ・キリコ-変遷と回帰」では、こういった私たちの期待に応えてくれる作品も出展されていますが、キリコもこんな作品を描いていたのか、と意外に思わせてくれる作品も多く展示されています。

この展覧会は、「変遷と回帰」という副題にあるように、現実を超越した「形而上学的」な作風を描き始めたな初期の作品から、古典主義やバロックに目覚めた時代を経て、再び形而上学的な作品に回帰し、さらに最晩年に至るまで、選りすぐった作品の数々でキリコの作風の変遷史をたどることができる構成になっています。



上の写真はミュージアムショップで購入した絵はがき。
右は「ビスケットのある形而上学的室内(1968年)」。
キリコにとってビスケットは、第一次世界大戦で軍隊に招集された時、配属されたイタリア・フェッラーラのユダヤ人街で見かけたビスケットにインスピレーションを感じて以来、作品の重要なモチーフになっています。
左は1962年の作品「ノートルダム」。
一見するとキリコらしい絵ではありませんが、川岸で釣り糸を垂れる一人の男性の姿が気に入りました。
中央上は、ビスケットではありませんが、キリコ展オリジナルグッズのチョコレートクッキーの包み紙。私が食べたのはイチゴ味でしたが、とても美味でした。

 
              


この日は、キリコ展を担当したパナソニック汐留ミュージアムの学芸員、萩原敦子さんのギャラリートークがありました。30分の予定だったのですが、作品を前に1時間近く熱のこもった解説をしていただきました。

歪んだ遠近法、写実的だが現実的でない、近くも遠くもどこまでもクリア、などなど、見る人を不思議な気持ちにさせてくれるキリコの作品の奥行きの深さ、想像を働かして謎を読み解く面白さがよくわかりました。
ギャラリートークは11月8日(土)と12月7日(日)にあります。

会場入口にはジュニアガイドのパンフレットもあります。
小学生以下は入場無料なので、週末にお子様連れでキリコの不思議な世界に迷い込んでみではいかがでしょうか。

キリコ・ワンダーランドの入口はこちらです。



12月26日(金)まで開催されています。詳細は公式サイトをご覧ください。


http://panasonic.co.jp/es/museum/exhibition/14/141025/


なお、会場の入口及びミュージアムショップの写真は美術館より特別に許可をいただいて撮影したものです。